2014年7月9日水曜日

エヴゲーニイ・シュワルツの「ありふれた奇跡」

業界の方々には常識かもしれませんが、 ロシア映画の字幕を起こしているサイトがあります。 

サイトはこちら、http://vvord.ru

モスフィルムの映画はYou Tubeの公式サイトで 無料でほとんど見られるのですが、字幕サイトを利用して、 さっそく"Обыкновенное чудо"(1978)を見てみました。 この映画の原作者は劇作家エヴゲーニイ・シュワルツ(1896~1958)の戯曲です。

戯曲のあらすじを紹介すると、いたずら好きの魔法使いが、かつて熊を人間に変身させた。 魔法使いはそのことをすっかり忘れていた(他にもいろいろなことをしているので、 ひとつひとつのことにあれこれ心を悩ますタイプでない)が、その人間に変身した熊くんが 魔法使いの家を訪ねてくる。「君は誰だっけ?」と聞く魔法使いに、熊くんは「熊です」と答える。 魔法使いの妻は、「あんた、生き物を好き放題にいたずらして、何て可哀そうな ことしてるのよ!」と魔法使いをしかる。すると、熊くんが「いいえ。怒らないでください。私は人間になって とても感謝しています」と言い、熊に戻るための魔法の解き方も聞いていると告げる。 魔法使いの妻がそれはどういう解き方なの?とたずねると、熊は「人間の恋人が現れて、キスをされると 熊に戻れるのです」と言う。魔法使いの妻は魔法使いに向かって、「あんた、また、なんでそんな 可哀そうなことするのよ!」と怒るが、魔法使いはいまいち気にしていない。 そうこうしているうちに、王女を連れた王様のご一行が魔法使いの住む村を訪れ、 その途中ではぐれてしまった王女が、それぞれの身分を知らないまま、熊くんと出会い、 恋に落ちてしまうという、なんともはやの展開になるのだが、やがて、自分が恋に落ちたことを 知る熊くんの絶望やいかに。

 しかし、この熊くんと王女を救う「ありふれた奇跡」(原題の直訳)が二人を待ち受けるのであった! それはなんでしょう? というあらすじの作品なのですが、映画で見ると何だか調子が外れている… コミカルな作品のはずなのに、魔法使い役のオレグ・ヤンコフスキイがむやみに怪しい。 原作ではちょっと抜けたおもろい人やけれど、画面で見ると妙に暗い。 そして、王様役はダネーリヤの映画でおなじみ、『不思議惑星キン・ザ・ザ』にも出演した エヴゲーニイ・レオーノフ(「クー」を連発していた背の低い丸こい身体の人)。 この映画では王様役で出演していますが、何の威厳もかもし出していません。 

そういうのが気になって、映画にはいまひとつはまらないのですが、 シュワルツはファンタスチカの劇作ではソ連時代随一という人で、他にも町を支配するドラゴンを 決闘で倒す伝説の勇者の話「ドラゴン」も大爆笑の作品。 ドラゴンは自分を伝説の勇者が倒しに来ると知っていて、ついにその勇者が目の前に現れるんだけど、 あの手この手を使って、決闘の日を引き延ばそうとしたり、脅かしたり、小細工がおもしろい。 

ボリス・ストルガツキイは 自分が編集長を務めたSF専門誌"Полдень. XXI век"の創刊号の巻頭言で この雑誌ではファンタスチカを幅広く取るとして、ヴェルヌからゴーゴリ、レムからブルガーコフ、 ウェルズからシュワルツまであらゆるスペクトルを含むと述べたが、シュワルツもまた 現代ロシア・ファンタスチカにとって、大事な作家のひとりです。だっておもしろいんだもの。

2014年7月6日日曜日

ザミャーチンのウェルズ論をめぐる論争

 先日に注文した «Эсхатология и утопия»(『終末論とユートピア』)という本と«Русская утопия в контексте мировой культуры»(『世界文化の文脈の中のロシア・ユートピア』)という論文集が届いた。著者と論文集の編者はヴャチェスラフ・シェスタコフという、1935年生まれの、ソ連時代から著名なユートピア研究者である。
 論文集には、スターリン時代の文化研究で知られるドイツのハンス・ギュンターや現代ロシアのアンチ・ユートピア小説の分析で知られるボリス・ラーニンの論文もある。シェスタコフ自身は「イギリスのユートピア的伝統の文脈におけるロシア・ユートピア」というタイトルの50ページ以上になるやや長い論文を執筆している。
 『終末論とユートピア』の方は、「キテージ伝説における終末論的モチーフ」、「ロシアの文学ユートピア:その未来像」、「ロシアにおける愛の哲学」といった章のほか、コンスタンチン・レオンチエフ、ニコライ・ベルジャーエフ、アレクセイ・ローセフといった思想家、象徴主義の画家であったミハイル・ネステロフの創作における宗教哲学的モチーフ、唯美主義のユートピアとしてのディアギレフの雑誌『芸術世界』を扱った章があり、テーマは多岐にわたっている。
 「ロシアの文学的ユートピア」の章では、チェルヌィシェフスキイの『何をなすべきか』やドストエフスキイの短編「おかしな男の夢」、ボグダーノフの『赤い星』など、ロシア文学に現れたユートピア思想を概観し、『われら』の作者であるザミャーチンをユートピア文学の一つの達成点とみている。
 シェスタコフの主張は、ザミャーチンが執筆した「ハーバート・ウェルズ」(1922)という評論によって補強される。シェスタコフは、ザミャーチンが欧米のユートピア文学だけではなく、ロシアのユートピア文学にも触れたという点で、ザミャーチンのウェルズ論の最後の文章をそのまま長く引用している。ザミャーチンは、クプリーンの「液体太陽」やボグダーノフの『赤い星』のほか、オドエフスキイやセンコフスキイといった19世紀前半の作家名をロシアのファンタスチカの先駆的作品としてあげ、自分の同時代人であるエレンブルグの『フリオ・フレニトの遍歴』と『トラストDE』、アレクセイ・トルストイ『アエリータ』の名を紹介している。ちなみに、ザミャーチンはこの評論の中で、自作の『われら』についても作品名を公表している。よほどの自信作であったに違いない。『われら』はソ連ではペレストロイカ期まで出版されなかった作品であるが、作品自体は1920年代には文学者内では有名で、ロシア・フォルマリズムの代表的人物である評論家ユーリイ・トゥイニャーノフの文芸時評«Литературное сегодня»(1924)では、20年代のロシアSFの成功例として『われら』が取り上げられている。
革命後のザミャーチンは、ゴーリキイの推薦により『世界文学』という出版社でイギリスとアメリカの文学を紹介する仕事に従事しており、ウェルズの作品選集を編集し、その序文を多数執筆している。ウェルズの初期の『タイム・マシン』や『モロー博士の島』といった古典的SF小説だけではなく、ユートピア小説である『解放された世界』や、『トーノ・バンゲイ』といったリアリズムの小説まで幅広く目を通し、俗物に対する皮肉な筆致と作家自身の持つ夢想性という、ウェルズの作家性を非常によく理解して執筆している。ザミャーチンの評論はウェルズ論としても非常に貴重な文献であるのだが、それだけではない。トマス・モアやカンパネッラ、カベーらの古典的な静的なユートピア小説から、ダイナミックなファンタスチカへと様式が変化するにあたって、決定的な役割を果たしたのがウェルズであると指摘するのである。欧米文学の歴史的系譜を踏まえたうえで、ユートピア文学の変容を論じた評論であり、ザミャーチンが1920年代当時のロシアの作家の中では、イギリスやアメリカのSF文学に対して抜群の理解を示す当代きっての欧米文学通であったことを証明するものである。
 ところが、ザミャーチンのユートピア論に反旗を翻した人物がいた。それはウラジーミル・スヴャトロフスキイという人物で、彼が執筆した『ロシアのユートピア小説』(1922)という評論は、実はザミャーチンのウェルズ論への反論である。つまり、ザミャーチンがロシアのユートピア小説の伝統にあまり触れずに、ユートピア小説からファンタスチカへの移行を論じたのに対し、スヴャトロフスキイは19世紀以来のロシア文学におけるユートピア小説の伝統と空想的社会主義のユートピア論の系譜に言及し、ザミャーチンの論述が不十分であると批判する。細かいことだが、この批判は本文中ではなくて注の中でされている。
 要は、シェスタコフがザミャーチンのロシア文学の伝統への理解として引用した箇所を、ザミャーチンの同時代人であるスヴャトロフスキイはロシア文学への伝統の理解としては不十分であると批判していたのである。
 スヴャトロフスキイはオドエフスキイとセンコフスキイ以外に、シチェルバトフや空想的社会主義におけるユートピア的伝統などをあげ、ロシア文学における豊かなユートピア的伝統を提示する。それは、シェスタコフが示したような、終末論的傾向を帯びたロシアの思想家たちの想像力とは異なっている。西欧ではなくてロシアの伝統を提示するという方向性において、スヴャトロフスキイとザミャーチンの立場の違いは明瞭であり、同時代のコンテクストに戻せば、ザミャーチンはロシアのユートピア小説の流れにいたというよりも、西欧の文学への窓口にいた人物として評価すべきであろう。シェスタコフは欧米文学の幅広い伝統を踏まえたうえで、ロシアのユートピア文学の位置付けに取り組んだ研究者であるが、彼のこの論文におけるザミャーチンの評価に関しては私は違和感を持っている。
ザミャーチンとスヴャトロフスキイのエピソードはささいなものにすぎない。しかし、その後のロシアSFの研究史を振り返ると、ユートピア研究とSF研究は、本来は領域が重なる部分が多いはずなのに、どこか疎遠に、めいめいに互いに干渉せずに進んできたという感を禁じえない。1970年代にはアナトーリイ・ブリチコフ(主著は«Русский советский научно-фантастический роман»)という偉大なロシアSF研究者が登場したが、ユートピア研究との接点は薄かった。そうしたSF研究とユートピア研究の分岐点が、ザミャーチンとスヴャトロフスキイの対立に端を発していると言えば、あまりにもうがちすぎであろうか。ともあれ、SFをユートピア小説から転進したものと見たザミャーチンと、SFをユートピア的伝統に位置付けていたスヴャトロフスキイの観点の違いは明瞭である。

ちなみに、スヴャトロフスキイのこの著作は早稲田大学に所蔵されている。スヴャトロフスキイは『ユートピアのカタログ』(1923)という書誌も編集しており、これは東大が所蔵しているのだが、筆者は未見である。一度、ぜひ見てみたいものである。

2014年6月15日日曜日

ボリス・ストルガツキイのロシアSF世代論

 ロシアSFにもいくつかの時代区分がある。1920年代のロシア革命後のユートピア的夢想の高揚期を「第一の波」、1940年代後半から50年代前半にかけて、スターリンの自然改造計画とも呼応した「近い目標理論」が吹き荒れた特異な時期を「第二の波」、1950年代後半から60年代にかけて、スプートニクの打ち上げと「雪どけ」が追い風となり、エフレーモフやストルガツキイ兄弟らが登場した、ソ連SFの中興期と位置付けられる「第三の波」、そして、1980年代後半から90年代にかけての「第四の波」に区分するのが一般的である。
 こうした世代論的な時代区分は、厳密に言えば作家の出生年とは関係がない。例えば、「第三の波」に分類される、イリヤ・ワルシャフスキイは1908年生まれ、ワジム・シェフネルは1915年生まれ、ストルガツキイ兄弟は兄のアルカージイが1925年生まれ、弟のボリスが1933年生まれであり、それぞれの間に大きな開きがある。ロシアSFの上記の時代区分は、作家が活躍した時期に応じて区分されたものである。
 さらに、こうした時代区分にある作家が属するのか属さないのかの判断には、多分に価値判断が含まれる。「第四の波」にモロダヤ・グヴァルジヤ派の作家が含まれることは決してない。
 したがって、たとえば「第四の波」を、出生年に基づいたある種の客観的なカテゴリーとみなすことはできないが、モロダヤ・グヴァルジヤ派の専横のもとでソ連時代には出版の機会に恵まれなかったが、セミナー等で腕を磨いて作品を執筆したという経験を共有した集団とみなすことは可能である。活躍した時代に応じて区分をするという意味では、作家を取り巻く出版状況との関係が現代ロシア文学の場合は非常に重要である。作家の出発時のスタイルが出版状況によって大きく左右されることを考慮すれば、出版状況というのは文学にとっては見過ごせない要因のひとつである。
 ところで、「第四の波」という表現と上記の時代区分は、SFファンでもあり、SF評論家でもあるセルゲイ・ベレジノイが1996年から97年にかけてFAQにまとめた文章で使われている。このベレジノイの論の時代区分の原型となったと思われるものが、ボリス・ストルガツキイが、1991年に刊行されたアンソロジー«Фантастика: четвертое поколение»(『ファンタスチカ:第四の世代』)に寄せた序文である。ボリス・ストルガツキイは「第四の波」ではなく「第四の世代」という表現を使用しているが、時代区分はベレジノイのものと全く同じである。

 20世紀のロシアSFの時代区分はここから始まると言っても過言ではない。以下にボリスの序文を紹介する。文中では「70年代の世代」と書かれているが、小説を書き始めたのが1970年代ということであり、作品の発表の機会が少しずつ広がったのは出版事情が変わり始めた80年代に入ってからである。

2014年5月17日土曜日

モロダヤ・グヴァルジヤ派

 1970年代半ばから80年代にかけてのロシアSF史を叙述するうえで、モロダヤ・グヴァルジヤ派(молодогвардейцы)のことは避けて通れない。
 モロダヤ・グヴァルジヤというのは出版社の名前で、ロシア革命後まもない1922年に設立された由緒ある出版社である。1920年代にはピオネールやコムソモール運動のなかで主導的な地位を占めた。1987年までコムソモールの中央委員会の出版部門であった。
 モロダヤ・グヴァルジヤというのは「若き親衛隊」という意味だが、文学作品としては、コムソモールの同盟歌となったベズィメンスキイの詩(1922年)や第二次世界大戦時の著名な戦争文学であるファジェーエフの長編のタイトルにとられた言葉であり、コムソモールと切り離すことはできない。ところが、現在の政権与党統一ロシアの青年組織も同じくモロダヤ・グヴァルジヤと名乗っている。ソ連が崩壊して相当経過しているのに、そうしたネーミングのセンスを使う彼らの意識のありようが垣間見えて興味深い。
 話を戻して、ソ連時代の出版社としてのモロダヤ・グヴァルジヤ社はコムソモール系の出版社として、若手作家の出版に力を注ぎ、看板作家として、ショーロホフ、オストロフスキイ、ガイダール、ボンダレフ、アイトマートフらを擁した。
 SF出版に関しては、1950年代後半から編集部に加入したセルゲイ・ジェマイチスとベーラ・クリューエワの存在を見逃すわけにいかない。イワン・エフレーモフやストルガツキイ兄弟の作品を世に送り、1960年代のロシアSFの「第三の波」を出版界から支えた。モロダヤ・グヴァルジヤ社はSFの分野を代表する出版社となった。
 ベーラ・クリューエワが主として担当した叢書「現代ファンタスチカ全集」«Библиотека современной фантастики»(1965~76)は当初15巻と予告されたものが25巻となり、さらに5巻が補巻として刊行されるなど成功を収めた。ブラッドベリ「華氏451度」、レム「星への帰還」、アシモフ「永遠の終わり」、シマック「都市」、ウィンダム「トリフィドの日」、安部公房「第四間氷期」、ブール「猿の惑星」、ヴォネガット「プレイヤー・ピアノ」、チャペック「絶対子工場」、エフレーモフ「アンドロメダ星雲」、ストルガツキイ兄弟「神様はつらい」、サフチェンコ«Открытие себя»といった長編のほか、多くのアンソロジーが編まれ、英米SFの紹介に果たした功績は大きい。
また、120巻を超える現代ソビエトSF叢書«Библиотека советской фантастики»(1967~91)は、ソ連時代後期を代表するSF出版シリーズである。刊行部数は約10万部であった。
さらに、1962年から92年まで刊行された年鑑アンソロジー「ファンタスチカ」 «Фантастика»は同時期に刊行されていた年間アンソロジー「エヌエフ」«НФ»と並んで、重要である。ソ連時代にはSF専門誌が刊行されなかったため、SFの中短編を発表する舞台はこうした年鑑アンソロジーに限られていた。
しかし、1973年にジェマイチス、1974年にクリューエワが相次いで編集部から追われ、代わってユーリイ・メドヴェーデフが実権を握るにともない、モロダヤ・グヴァルジヤ社はメドヴェーデフを中心とした派閥に私物化されるようになる。彼らはストルガツキイ兄弟を敵視し、自らをエフレーモフの正統な後継者と強弁した。ソ連時代の出版は計画経済下に置かれていたため、出版計画の策定の段階からどの作家の作品を出版するかという選定に際し、編集部の力が非常に大きかった。ストルガツキイ兄弟の代表作である『ストーカー』は、雑誌「オーロラ」に1972年に掲載されたが、1980年にモロダヤ・グヴァルジヤ社から彼らの作品集«Неназначенные встречи»に収められて刊行されるに当たり、編集部から執拗な改稿の要請を受け、作者の構想とはかけ離れた形で編集された形で出版された。このあたりの事情はボリス・ストルガツキイの回想録«Комментарии к пройденному»に詳しい。もちろん、現在の版では作者のオリジナル版に復元されているが、ボリス・ストルガツキイにとっては、1980年版は読み返したくもない代物になったそうである。
 1980年代に隆盛を迎えるソ連のSFファンの活動は、ストルガツキイ兄弟やキール・ブルィチョフらの作品を出版せず、質の低い作品を出版し続けるモロダヤ・グヴァルジヤ社への批判という形を取り始めた。ファンは自分たちでヴェリーコエ・コリツォ賞というSF賞を設立し、運営し始めたが、大きな出版社から刊行されたということではなく、自分たちの評価を基準に受賞作を選んだ。1982年の短編部門の受賞作はミハイル・ヴェレルの«Кошелек»という作品であるが、現在では現代ロシアを代表する作家となったヴェレルも、当時の出版界では全く無名の存在にすぎなかった。しかし、こうした作家を見つけ出し、ファンで共有することで、SF出版界を牛耳っていたモロダヤ・グヴァルジヤ派に対抗する力が蓄えられていった。
 肝心のモロダヤ・グヴァルジヤ派の人となりについては、波津博明氏によるSFマガジンでのレポート(1985年10月号と1993年4月号)に詳しい。波津氏は1985年に、モロダヤ・グヴァルジヤ派の実力者であるウラジーミル・シチェルバコフを訪ねたが、当時のシチェルバコフはストルガツキイ兄弟を歯牙にもかけない態度であった。しかし、1991年のソ連の崩壊により、モロダヤ・グヴァルジヤ派のSF出版界での地位は失墜し、シチェルバコフ自身も凋落する。波津氏にシチェルバコフが自分の本を見せ、この作品には君が登場するんだよ、実は聖母マリアが私の枕元に現れてと真顔で話すくだりは、ソ連崩壊と人間の変容をまざまざと見せつける生々しいレポートとなっている。
 波津氏のレポートからもうかがえるシチェルバコフの作品のオカルト性だが、これはシチェルバコフひとりの要素ではなかった。80年代のSFファンが批判の対象としたのは、出版界の私物化という点だけではなく、モロダヤ・グヴァルジヤ派の作品が、エフレーモフを継ぐSFの本流を自称しながら、反科学的な作品を書いているという点であった。モロダヤ・グヴァルジヤ派と闘った批評家のフセヴォロド・レヴィチは、モロダヤ・グヴァルジヤ派の文学を「ゼロの文学」«Нуль – литература»と呼んで痛烈に批判した。
 おおむね、モロダヤ・グヴァルジヤ派に属すると言われるのは、彼ら自身が「エフレーモフスクール」«Школа Ефремова»と読んだ作家に分類される人物である。すなわち、メドヴェーデフとシチェルバコフのほかには、セルゲイ・パヴロフ、エヴゲーニイ・グリャコフスキイ、ミハイル・プホフ、エヴゲーニイ・スィチ、オレグ・コラベリニコフといった面々がいる。この中で、プホフとコラベリニコフはよい作品も書いたと評価されているが、大多数の作家は今日、全く読まれていない。コラベリニコフをはじめ、モロダヤ・グヴァルジヤ派に属した作家は、ソ連が崩壊するとともに作品発表の機会を失い、筆を折っていった。
 ところが、運命の変転はこれでは終わらない。ソ連崩壊後の混乱の中で、当初はSFに限らず、翻訳文学が出版界を席捲した。ソ連時代に禁じられていた欧米の文学が自由に出版できるようになり、推理小説、ハーレクインなどのロマンス小説が大流行した。SF界も、サンクト・ペテルブルグに拠ってターボリアリズムを標榜したアンドレイ・ストリャロフやヴァチェスラフ・ルィバコフらを除けば、90年代初頭はロシア語作家にとっては受難の時代であった。しかし、90年代半ばには翻訳ブームが終焉し、国産文学の需要が徐々に回復し始める。SFでは、ボエヴィクと呼ばれる、アクションを主体にしたスペースオペラを含めた冒険SFやファンタジーのブームが訪れる。また、ソ連時代には出版計画の問題で厳しく制限されていた長編が出版界から求められるようになる。長編を書ける作家を求める出版界の要請にこたえたのが、若手ではセルゲイ・ルキヤネンコやニーク・ペルモフであったが、実はそれだけではなく、モロダヤ・グヴァルジヤ派の一部が長編の多作に対応できるタフな職業作家としてリサイクルされたのである。このようにして、グリャコフスキイは長編SF作家として90年代半ばに復活を果たし、アレクサンドル・ブシコフやユーリイ・ニキーチンはベストセラー作家としての地位を築く。
 出版事情の変化に応じて、中短編が中心だった古い作家が長編作家としてリバイバルするというのは、文脈は全く異なるが、第二次世界大戦後の日本の推理小説界を連想させて非常に興味深いものがある。

2014年5月16日金曜日

ロシアSFファンダム史

ウクライナのSF事情の項で、モロダヤ・グヴァルジヤ派などと書きましたが、何のことかわからないと方も多いと思います。

ロシアのSFファン活動の歴史は1970年代末から活性化し、80年代に黄金時代を迎えます。90年代にはかつてのファンが作家になったり、出版人になったり、評論家になったりと、ファンのプロ化とでも言うべき現象が起こり、ファンダムの存在意義が問い直されることになります。本のないソ連時代に本を求めたファンの活動と、ソ連崩壊後の本があふれる時代にファンは何をすべきなのかという問いが胸に突き刺さります。

昔に書いた「1980年代ロシアSFファンダムの構造と変動」はこちらからご覧になれます。
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/47674

2014年5月11日日曜日

ウクライナのSF事情

 ウクライナで政変が起きて、その余波でクリミアがロシアに編入されるなど混乱が続いている。ウクライナ在住のロシア語SF作家はかなり多く、有力な作家も輩出している。すぐに名前が浮かぶ作家でも、マリナ&セルゲイ・ジャチェンコ、ヤナ・ドゥビニャンスカヤ、イリヤ・ノヴァク、ウラジーミル・アレーネフ、評論家のミハイル・ナザレンコ、編集者のイラクリイ・ワフタンギシヴィリ(キエフ)、ゲンリ・ライオン・オルジ(ドミートリイ・グロモフとオレグ・ラディジェンスキイの共作のペンネーム)、アンドレイ・ワレンチノフ、アンドレイ・ダシコフ、フョードル・チェシコ、アレクセイ・ベスソノフ、ウラジーミル・スヴェルジン、アレクサンドル・ゾリチ(ハリコフ)、ヴィタリイ・ザビルコ、グレーブ・グサーコフ(ヤロスラフ・ヴェロフの筆名で執筆)(ドネツク)、ユリヤ・オスタペンコ(リヴォフ)などがいる。こうした作家が、今後、混乱が続くウクライナでロシア語作家としてどういう姿勢で書くのか非常に気がかりである。ソ連崩壊後にウクライナの公用語はウクライナ語になったとは言え、その後もロシア語で書く作家が続々と輩出してきた地域である。ウクライナがロシア語文化圏にとどまるには、今回の政変後の混乱はあまりにも大きな傷となったと思わざるをえない。今回はウクライナのSF事情を少し歴史的に振り返ってみたい。
 ソ連時代は、それぞれの民族語での創作がそれなりに奨励されたという側面もあり、ウクライナでもウクライナ語で創作する作家がいた。有名なのはオレシ・ベルドニク(1926~2003)で、1971年に発表された長編«Зоряний Корсар»はフランス語に翻訳されるなど、ウクライナを代表するSF作家と目された時期もあった。ミコラ・ルデンコ(1920~2004)は60年代半ばにデビューし、70年代前半までSF作家として作品を発表した。しかし、このふたりはソ連に1975年のヘルシンキ宣言の遵守を求める人たちによって作られた人権擁護団体のウクライナヘルシンキグループの活動に関わり、政治的活動を強めていく。ソ連当局からはウクライナ民族主義として非難され、ルデンコは逮捕され、のちに亡命を余儀なくされた。ルデンコのことは深見弾さんもSFマガジンで記事にしている。
 こうした事情と関係しているのかどうかわからないが、ロシアのSF界のベルドニクやルデンコに対する反応は冷淡で、ガーコフ編のSF人名事典«Энциклопедия фантастики»のふたりの項目には、彼らの作品自体が、1970年代から80年代にかけてソ連のSF出版界を牛耳ったモロダヤ・グヴァルジヤ社の派閥の民族主義的、反科学的傾向に共鳴していると非難されている(項の著者はペルミのSFファンであるアレクサンドル・ルカーシン)。ベルドニクに至っては、ロシア革命前の神秘主義的傾向の強い女性SF作家、ヴェーラ・クルィジャノフスカヤの名前が引き合いに出されて批判されている。ルカーシンはストルガツキイ兄弟やブルィチョフの作品を愛するファンとして、彼らを抑圧したモロダヤ・グヴァルジヤ派の行動は許せるものではなかった。SF出版に関わっているくせに、ストルガツキイ兄弟らの作品は出版せず、愚にもつかない、むしろ反科学的なオカルト的作品を出版して出版社を私物化しているではないかというのが、モロダヤ・グヴァルジヤ派への非難の含意であった。したがって、ルカーシンの表現は、SFファンとしては最大級の非難である。しかし、ベルドニクやルデンコは直接にモロダヤ・グヴァルジヤ派とは関係がないわけで、あくまでも作品の内容のこととは言え、こうした批判の方法はまさしく党派的な表現と言わざるをえない。
 一方で、ソ連時代からロシア語で執筆する作家もウクライナには存在した。ソ連時代には、キエフは出版規模ではモスクワに次ぐ第2位の地位を占めており、重要な都市であった。キエフには60年代を代表する本格的なSFの作家であったウラジーミル・サフチェンコが健在で、70年代からはボリス・シテルンがボリス・ストルガツキイのセミナーに参加するなどして腕を磨き始めた。クリミアのシンフェローポリは、スヴェトラーナ・ヤグポワが80年代にセミナーを開催してダニエリ・クルーゲルが参加し、1988年にはレオニード・パナセンコが出版社«Таврид»の編集部に入るなど、ロシア語SFの拠点のひとつとなっていた。また、80年代末に、セヴァストーポリではアンドレイ・チェルトコフとセルゲイ・ベレジノイが旺盛なSFファン活動を開始した。ウクライナ南部のニコラエフでも後に作家となるウラジーミル・ワシリエフが80年代末からファン活動を始めていた。
80年代末から90年代初頭にかけてのウクライナは、ヴィタリイ・ピシチェンコが主導した全ソ新進SF作家創作協会«ВТО МПФ»の影響も大きく、協会が刊行したオリジナル・アンソロジー«Румба фантастики»シリーズには、リュドミラ・コジネツやレフ・ヴェルシニンといった当時の新進作家の力作が収められた。コジネツは、80年代のロシアSF界にはまだ珍しかったファンタジーを書く貴重な存在であった。
一方で、1990年には、全く小説家としての経験がないリヴォフ在住のウラジーミル・クジメンコの長編«Древо жизни»がソ連の全国的な書評紙である«Книжное обозрение»に連載されるなど、80年代末から90年代初頭にかけてのウクライナのSF界では、雑多な流派が活発に動き始めていた。
ところが、ソ連崩壊により、全ソ新進SF作家創作協会の活動は停止し、クリミアのSF界も停滞した。この中で、まったく新しく台頭したのが、オルジらハリコフ在住の作家の活動である。1990年代前半に欧米のファンタジーの翻訳に携わっていたオルジは、1991年から«Второй блин»という作家や編集者、翻訳家、イラストレーターなどを集めた出版関係の企画会社を設立して人脈を築いた。オルジ自身は90年代半ばからヒロイックファンタジーの長編を量産し始め、同郷のワレンチノフ、ダシコフらとともにSF出版界に進出した。90年代後半のロシアSF界は、翻訳に席捲されていた市場がロシア語作品に回帰する時期であり、長編を量産できる作家が求められていた。オルジのほか、ワレンチノフ、ジャチェンコ、スヴェルジン、ベスソノフらウクライナ出身の多くの作家がこの潮流に呼応し、出版社の期待に応える働きぶりを見せた。ロシアのファンタジー長編の基礎を作った作家は、マリヤ・セミョーノワ、ニーク・ペルモフ、エレナ・ハエツカヤ、ミハイル・ウスペンスキイ、スヴャトスラフ・ロギノフであり、歴史改変小説の基礎を作ったのはヴャチェスラフ・ルィバコフ、ワシーリイ・ズヴャギンツェフ、アンドレイ・ラザルチュークであるが、シリーズもののファンタジーや歴史改変の類型に肉付けしたのがオルジらウクライナのロシア語作家であったと言える。また、オルジの初期作品にはロジャー・ゼラズニイの影響が濃厚であるとの指摘も見過ごせない。ゼラズニイは90年代初頭に翻訳された英米SF作家ではもっとも受容された作家であった。リガのポラリス社が1995年から97年にかけて刊行した叢書「ロジャー・ゼラズニイの世界」は全29巻にも及んだ。
1999年からはハリコフでSFコンヴェンション「ズヴョズヌイ・モスト」が毎年、開催されるようになり、ロシア語SF界でのウクライナ在住の作家やファンの地位が相当なものに上ることを示した。2004年からはキエフで「ポルタル」、2008年からはクリミアで「ソズヴェズディエ・アユ=ダグ」というSFコンヴェンションも開催されるようになった。2006年と2013年にはユーロコンがキエフで開催されるなど、国際的なSF界での地位も向上している。
 ウクライナのロシア語SF作家の比重はロシアSF界においても大きな位置を占めている。オルジとジャチェンコは現代ロシアSFにとって欠かせない作家であるし、2000年以降も、ゾリチやドゥビニャンスカヤ、オスタペンコ、ヴェロフといった様々な傾向の作家が登場している。商業的には成功を得られなかったが、2003年から09年まで、キエフではSF専門誌「レアリノスチ・ファンタスチキ」が刊行され、グルジア出身のワフタンギシヴィリが編集長を務めた。一様ではないが緩やかに関係を持ちながら展開してきたウクライナのSF界が今後どのような道を進むことになるのか。ポルタルはこれまでウクライナ語のSF的作品にも賞を贈ってきた。2010年にはウクライナのSFファンの全国組織であるВсеукраинское общество любителей фантастики(ВОЛФ)も設立され、ウクライナ語で執筆するウラジーミル・エシキレフも参加している。エシキレフの作品はロシア語にも翻訳されて出版されているが、こうした流れが今後どうなるのか注目しておきたい。

ロシアSF人名事典

ロシアSFの人名事典です。

https://drive.google.com/file/d/0B9Gk42n9WZAVNHRaYmFRaERMSzg/edit?usp=sharing